ラクホン大学 東洋学部 ----[ \---- 大学生の学科的な研究 アウトライン テーマ: 紫式部の源氏物語を学ぶ 研究大学生: ĐOÀN THỊ NHƯ ANH 指導先生: PGS. ĐOÀN LÊ GIANG BIÊN HÒA, THÁNG 12/2010 お礼 初めに、タクホン大学の東洋学部の先生たちにお礼をお話いたします。今 まで、私のために、さまざまな条件を作って、親切に教えてくださいましてい ます。 特に、私の心から、ドアン.レー.ジャン指導先生及びに日本人の飛田先 生にお礼をお話いたします。研究している時には先生が論文に関するいろいろ な資料や知識を真面目に説明して、教えてくださいました。とてもお忙しいの に、時間を作って、論文の間違い所を指摘してくださいまして、それで、論文 を完成できました。 さらに、友達に本当どうもありがとうございます。私のが論文できるため に、いろいろな貴い意見を教えてくれて、勉強した時も研究したときも友達が よく応援して、助けてくれました。 また、物質的や精神的に手伝ってくれた家族全員が多くの動力で研究して いた困難でも乗り越えられました。 最後、本当にどうもありがとうございました。 ビエンホア、二千十年十月 目次 A. はじめに. テーマを選んだ理由.
テーマ研究の歴史. 目標と研究範囲. 研究方法. テーマの研究貢献.
テーマの構造: 第四章があり .内容部. 5 第一章: 平安時代と源氏物語の生まれる.1 平安時代(794 – 1192) .1 歴史と社会 .2 宗教と習慣 .3 文学の発達.2 源氏物語 .1 紫式部作者 .2 源氏物語の概要. 11 第二章: 源氏主役と十妻宇治での人物.1 (初めの第三十三章で)源氏と恋人たち.1 源氏の性格 .2 源氏主役に影響がある女性 .2 (次の章八で)源氏の終わり.1 過去の誤ることに後悔 .2 悲しく病死 .3 (終わりの章九で)源氏の子孫. 26 第三章: 源氏物語に哀れ.
人物の命の前の哀れ.1 人物の亡くした時間の哀れ .2 美しさの無常の前に哀れ .2 美しい自然の前の哀れ. 31 第四章: 述懐芸術. 38 参照資料. はじめに 1.
テーマを選んだ理由 日本は四つの季節の変化に従い美しい風景がある国であると考えら れている。桜の花がある春は南から北まで徐々に咲く、夏の緑の葉を付 けた木、秋の紅葉は北から南まで真紅を浮かぶ、冬は真っ白な雪に覆わ れている。日本といえば武士道精神、生け花、茶道、盆栽、剣道、歌舞 伎。。。などが伝統的文化として思い浮かぶ。また、平野の間に日本の 最も高い山富士山があり、雪に山頂の周りを覆われている。これこそ芸 術家のインスピレーションの起源である。日本の文化は世界文化の最も 高い文化の十リストに承認した。上記の誇る文化以外、日本の文学があ る。 日本の文学の歴史では平安時代に万葉集をはじめとする詩歌、源氏 物語をはじめとする小説などがあらわせている。源氏物語は 11 世紀から の世界で最初の小説と考えられている。これこそ私が日本の文学で最も 興味を持つ小説である。この小説を調べるのはいい物語を読むだけでは なく、今日まで存在する習慣、人間、美しい自然、伝統文化などを理解 する助けになる。 この研究はストーリの中での隆盛な日本、現代の生活の中で二次世 界大戦後の奇跡的な経済について世界を称賛させた日本について理解を 促すためにされた。自然の課題を克服する高い精神は日本のみのものだ と考える。 私は文学を愛好し.強い関心を持ったのでこのテーマを選びました。 さらに、日本語学科で勉強しているみんなの役に立つことを期待する。 日本語学科は日本の言語について学ぶだけではなく、その国の一般的な 知識も持っていなければいけならない。今、私が特に興味を持っている 分野は日本文学である。 2 2. テーマ研究の歴史 二十世紀初頭、多くの日本人作家が翻訳者として「源氏物語」と いう日本の古典文学を翻訳しました。そして、谷崎潤一郎と瀬戸内寂聴 の翻訳版を含みます。最も一般的な訳文はおそらく 1978 年からの講談社 のポケットサイズです。この訳文は 7 冊、A6 判用紙の小さい字で 3500 ページですべてを含んでいます、そして(1910-1976)今泉忠義博士によ ってすべての訳文が翻訳された。 源氏物語はアーサーウェイリー(イギリス)、エドワードサイデン ステッカー(アメリカ)ルネシフェール(フランス)などの翻訳者の努 力によっていつくかの言語に翻訳された。 源氏物語の英語での訳文版は主に日本古典文学大系の文書に基づい て岩波徳兵によって発行された日本古典作品を含む。山地氏徳兵教授は 編集するため 12 世紀から 13 世紀初頭までの詩人藤原定家.偉大な学者 の研究の青表紙(緑本)の中に室町時代の原稿を利用した。また、玉上 卓也教授の源氏物語評釈と 2/3 出版された小学館作品という他の二つの 文書も参考された。この二つの参考版は青表紙の原稿に基づいて翻訳さ れた。これらの両方の参照版は青表紙という手で書く草案版に基づいて 翻訳される。三つの現在日本語翻訳版(女性の詩人与謝野晶子、作家谷 崎潤一郎、作家円地文子)も参照された。 ベトナム語で作家紫式部の源氏物語翻訳版はハノイで 1991 年に社会 科学出版社によって出版されました。これは英語翻訳版から翻訳されま した。そして翻訳者の名前を書かなかった。出版責任者:グエン.ドウッ ク.ドウー;編集:グエン.クー。ベトナム語訳文版にかいてあった導入 の言葉は英語訳文版の導入言葉から翻訳されました。この英語訳文版は 1976 年 1 月にエドワードサイデンステッカーによって翻訳されました。 日本のミラーや 1868 年初めから日本文学という本をかいた日照作家です。 日本文学の歴史という本を書いた作家加藤修一です。全体的に、作家は 時代、著者、原稿、翻訳版、について学ぶとか、作品を比較する。つま 3 り、私が学ぶテーマは話の広い面を学ぶ、人物の分析、話の内容的な価 値、芸術的な価値を達成したか学ぶ。 3. 目標と研究範囲 論文の目的はストーリーの内容及び芸術の価値をはっきりさせるた めに関係を分析することである。そしてストーリーの影響を調べる。主 に研究する対象は「源氏物語」というベトナム語訳文である。これはグ エン.ドーク.ヂーエディターによって出版された。また、日本語資料 を参照した。 4. 研究方法 効果を達成するため、作品の歴史を調べるという研究方法を利用し ます;ストーリーの価値を分析及び調べるという記述研究;ストーリー の研究歴史に従ってストーリーを研究評価する。 5.
テーマの研究貢献 「紫式部の源氏物語」というテーマは作家、翻訳者によって総合的 に研究された。 ラクホン大学で私はこの話について調べる最初の人である。この論 文は小説本を読むのが好きで、文学について興味を持つ次の日本語学科 で勉強する人にとっての研究資料である。同時にこのテーマを通して東 洋学部の学生は言語ばかりでなく、歴史、文化、文学に関しても学んで ください。それを自分の第 2 の国のように見てください。東洋学部で勉 強することは言語だけを勉強するセンターと決定的な違いがある。日本 学科について習うときは言語ばかりでなく、ほかの分野をたくさん学ば ざるを得ない。これらは日本人と接触するときの将来の仕事に役に立つ。 日本といえば特徴的文化、陰陽五行説の色のたくさん料理、時間が厳し い、自分の威信を確認する集団、俳句という一番短い詩及び源氏物語と いう一番長い小説を生んだ文学の国である。 4 6. テーマの構造: 第四章があり 第一章: 平安時代と源氏物語の生まれる 第二章: 源氏主役と十妻宇治での人物 第三章: 源氏物語に哀れ 第四章: 述懐芸術 5 B.内容部 第一章 平安時代と源氏物語の生まれる 1.1 平安時代(794 – 1192) 1.1 歴史と社会 七百九十四年に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから、鎌倉幕 府の成立までの約三百九十年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。京 都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上唯一の中心であ ったことから平安時代と称する。 平安時期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分 的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。しかし、律令制 と現実の乖離が大きくなっていき、九世紀末~十世紀初頭ごろ、政府は 税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を 対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。この方針転換は、民 間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括 することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家 体制という。 小美町国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委 譲された有力百姓(田堵.名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要 からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴 族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していった。国家 権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界 では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が 進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中 央においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は 摂関家による摂関政治が展開し、特定の専門が独占的に徴税権を得る荘 6 園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢 力を二分していった。 平安時代初期は天皇の強い政権により国と人々が支配されていまし た。貴族が地位の高い官職につく場合、彼らは秀でた文学者、天皇の外 戚、もしくは優れた政治的能力がなければなりませんでした。そして朝 廷内での権力争いから貴族は他の貴族に対して陰謀を企てることがしば しば起こりました。今日では学問の神様として有名な菅原道真も陰謀に よって大宰府に左遷されたうちの一人である。彼は優れた文人でもあり 学者でもあったことから右大臣という官職を得ることができた。しかし 彼は藤原時平によって無実の罪を着せられ、九州にある大宰府に左遷さ れる。道真は醍醐天皇に無実を訴えますが醍醐天皇は道真を信じなかっ た。そして道真の死後、彼に無実の罪を着せた藤原時平とその陰謀に加 担した人物が道真の祟りにより命を落としたとなっている。藤原氏は天 皇の外戚になり朝廷での地位を確立する。そして摂関としての地位を独 占した。しかし時が経ち平安時代後期にはその政権は平氏の手に移る。 平氏は朝廷でのほとんどの官職を独占し、支配し始めた。平氏は藤原氏 が行ったように彼らの娘を天皇と結婚させ、次期天皇の外戚となった。 平氏は宋王朝との貿易を重視し、その利益を平氏の基盤としていた。多 くの貴族が官職から退けられ、平氏が官職を独占するという行き過ぎた 行動が目立ち始める。これにより平氏への反発が強くなり、平氏の没落 を導いた。平安時代も他の時代に見られるように、初期には天皇の強い 政権がみられ、中期から後期にかけては貴族によって政治が支配されて くる。 十一世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務 に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解 が有力である。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の 徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。 十二世紀中期ごろには貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようにな 7 り、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で 最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一 手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱によ り崩壊してしまう。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは 別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時 代は幕を下ろした。 桓武天皇以降、天皇の政権は強く周りの貴族が天皇以上の力を持ち 始めることはなかったが、時が過ぎ貴族が力を伸ばし朝廷内での官職を 獲得のため他の貴族たちと権力争いを始める。藤原氏と平安は平安時代 に天皇の外戚となることにより力を伸ばす。藤原氏は平安時代中期に栄 え、平氏は後期に栄える。平氏は貴族ではありませんが天皇の出身であ る。平氏は安徳天皇の母方の外戚となり朝廷での地位を独占したが、平 氏によって地位を追われた貴族たちは平氏に反感を抱く。平氏に対する 反感は増加し、源頼朝によって起こされた平氏追討により平氏は没落す る。平安時代の文化の特徴は大陸からの唐分化を消化.吸収し、その文 化が日本文化と融合したことである。平安時代の貴族の生活は優雅であ り豪華のようにも思われますがその生活の背後には陰謀も渦巻いていた。 1.2 宗教と習慣 その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの 影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に 送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させよ うとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と 高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。平安時代中期は釈迦入滅の二 千年後に当たる。正法の千年.像法の千年の後、仏教が滅びる暗悪時代、すな わち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も 悟りを得ることができない。国が衰える人々の心も荒み、現世での幸福も期待 できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が 流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎 8 図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の他に平等院を建立した。その鳳 凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。 だが、平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な所領の持ち主であり裕 福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこでこうした 外部からの侵入者から防衛するために僧侶や信徒が武装したのが僧兵である。 だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派.寺 院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行うしゅうだんとして社会の不安 要素の一つなっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせるなどの一種の城 塞化を進める寺院も現れた。 平安時代の文化の特徴は大陸からきた唐文化の消化.吸収、そして日本文 化と文化を融合した新たな文化の発展である。平安時代中期には文字を使うこ とにより文学が発達した。音楽も平安時代の早い時期に栄える。仏教では新し い宗派の天台宗と真言宗が二人僧によって伝えられたのもこの平安時代であっ た。 唐文かの影響は貴族が住んでいた家などにも見られる。たとえば、建物の 廊下でつないでいる中国の建築物の形が日本の当時の貴族の邸宅にも用いられ た。しかし全てを唐王朝の建物の様にしたわけではなく、家の形や仕切りなど は中国の建物とは異なりました。この時代の貴族の家は主に寝殿造りである。 寝殿造りとは建物の南向きを中心として南には池があり、そして西、東、北の 建物を廊下でつなぎ、その建物は寝殿を中心として左右対称に建てられている。 中国絵の技法を用いて日本の風景を描いた大和絵ができたのもこの時代でした。 そしてこのような絵は部屋の仕切りとして使われた屏風や襖などに描かれた。 この当時の貴族は寝殿造りの邸宅に住みました。十二単は礼装として貴族 の女性や女房などに着られていましたが、とても重かったため歩くのが困難だ ったようです。着物の着付けを教えている、ある講師の方によると、十二単を 着ている女性は衣があまりにも重いため、部屋の中ではひざで歩き、座るとき は方ひざを立てて座っていたそうです。貴族の男性は礼装として束帯を着てい ました。これらの衣服の基本は唐王朝で着られていた衣服がもとですが、その デザインを大きく変えてできたのがこれらの衣服でした。貴族は毎日このよう な格好をしていたわけではなく、貴族の女性や女房は普段着として直衣または 9 水干を用いたようです。衣の色は重視され季節や状況などにあわせて選ばれた ようです。 食事においては一日二回が普通でした。そして仏教の影響が強く、彼らが 食べたものは野菜、米、鶏肉、海産物が主でした。料理はつくる過程上で味付 けされるのではなく食べる前に塩や酢、そして他の調味料で味付けされました。 資料によると、貴族の平均寿命は短く、その原因は栄養バランスが悪い食事、 運動不足、室内中心の生活が原因だったと書かれています。そしてまた、都に いる貴族ものが収穫される場所や魚が取れる場所から離れていたため新鮮な魚 などを得ることができませんでした。一方で、庶民の食生活は質素でしたが、 食事に対して仏教の影響なく、新鮮なものを食べ、バランスが取れていたため、 かれらは貴族よりも健康的だったようです。 1.3 文学の発達 三つの文字の形が日本では使われている。これらはそれぞれ平仮名、カタ カナ、漢字とよばれ、漢字は古代にあった中国王朝から稲作と道具技術の伝来 と同時にもたらされた。上流階級の人々は文字を外交、記録、他国からの文学 の勉強のために使った。そして読み書きができたのは殆どが男性であった。漢 字は中国から伝来したものであるが、全ての漢字が中国から来たのではなく、 その一部は日本人によっても作られた。平仮名とカタカナは平安時代に作られ、 上記でも述べたように平仮名は漢字を簡略化して作られたもので、女性たちに よって頻繁に使われた。カタカナは漢字をより簡略化したもので僧たちにより 中国から来た経典を読むために作られた。 平安時代の人々は文字を使って彼らの感情を詩に書き残りため本や百人一 首などに載っている多くの歌は平安時代からのものである。短歌は多くの人々 に親しまれるが、貴族や僧によってもっとも多くの短歌が残された。僧は自然 や生活、そして世界について語り、貴族は自然、生活、世界、恋愛などについ て語っている。貴族は短歌で遊び、そして手紙のように短歌のやり取りなども あった。しかし全ての人が短歌を得意としたわけでなく、すばらしい短歌を書 いた人々は歴史的に名前が残っている。短歌はいま現在も人々に親しまれてい るが、手紙として書かれているのではなく、一つの趣味として楽しまれている。 10 平安時代に貴族の間で文学が発達した背景には女性の活躍も多く見られる。 資料によると、漢字から作られた平仮名は女性に使われ、漢字をより簡略化し たカタカナは僧によって使われた。男性以外が漢字を使うことはあまりよく思 われていませんでしたが、宮中に上がる女性には高い教養が求められた。女性 が平仮名を使うことにより短歌や物語、そして日記を書き始め、数々の作品が この時代に生まれた。漢字を使う男性に引けをとらない才女として有名だった 枕草子の作者である清少納言である。そして紫式部によって書かれた源氏物語 は日本最古の長編物語でもある。源氏物語とは宮廷生活を舞台に主人公の光源 氏と彼の周りの人物を描いた物語である。自然などに対する感情は短歌として 書き残されたり、手紙のやり取りとしても短歌は使用された。 1.2 源氏物語 1.1 紫式部作者 紫式部の生年は九百七十三年ごろと言われますが、確実なことは分 からない。藤原北家の出で、藤原為時の娘で父は越前と越後の国守を歴 任した受領.中流貴族の藤原為時といい、生母は藤原為信の娘で、幼少の ころ死別したようである。同母の兄弟に藤原惟規がいる(同人の生年も 不明であり、式部とどちらが年長かについては両説が存在する)ほか、 姉の存在もしられる。 幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこな したなど、才女としての逸話が多いである。五十四章にわたる大作「源 氏物語」、宮仕え中の日記「紫式部日記」を著したというのが通説、歌 集「紫式部集」がつたえられる。父.為時は三十代に東宮の読書役を始 めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世したが花山天皇 が出家すると失職した。十年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の 受領となる。紫式部は娘時代の約二年を父の任国で過ごす。 結婚は二十七才位のときで、夫は藤原宣孝という二十歳も年上の人 であった。宣孝は自己顕示欲の強い派手な性格で、相当な色好みで妻も 11 三人おりました。二十八才で娘.賢子を産みますが、僅か三年で夫と死別 する。 夫の死後、時の最高権力者.藤原道長(九百六十六~千二十七)の娘 彰子の女房として宮仕えし、源氏物語の執筆を始めた。「紫式部日記」 には「一条天皇の中宮.彰子が敦盛親王を出産した御祝いとして献上され た本である。」と書かれている。紫式部は当時の女性としては珍しく漢 字の素養があり、宮仕えをして体験した宮中生活を女性の目を通して描 いたのでしょう。 源氏物語を書き上げた後の紫式部の消息はほとんど残っているが、 一人娘の賢子は後に御冷泉天皇の乳母となり、政府高官の典侍を経て、 遂には上流階級の従三位の位階まで昇りつめた。紫式部が生まれ育った 邸の跡が、今も京都に残っている。京都市右京区北之辺町にある庵山寺 の境内が邸跡とされている。紫式部が葬られたとされる墳墓は京都市北 区の紫野にある。堀川通りの陰にひっそり隠れた苔むす塚は、晩年の頼 りなさを伝えているようである。没年についても長和三年(千十四)と も寛仁三年(千十九)とも言われて、はっきり分かるが、四十二.三歳 の生涯だったとされている。 1.2 源氏物語の概要 源氏物語の内容は帝の御子でありながら源氏という臣下の身分に落 とされ、皇位継承権を失った皇子(光源氏)の王権復活の物語で、当時 の(平安時代)王朝貴族の華やかなりし時代を背景に語られている。そ の構成は大きく二部に分かれ、全ての五十四章からなります。 第一部...桐壺(第一章)~幻(第四十一章): 光源氏の出生から、 父帝の后.藤壺との蜜通そして懐妊、朱雀帝の姫(朧月夜)との蜜会発 覚による須磨への流離を経て、准太上天皇に復権するまでの栄華の物語 である。 12 女三宮の降嫁、女三宮と柏木の蜜通による不義の子(薫)の誕生、 紫上との死別など、光源氏の暗転の物語である。 第二部...匂宮(第四十二章)~ 夢浮橋(第五十四章): 薫を 中心に光源氏の孫.匂宮と宇治三姉妹の愛と葛藤の物語である。 光源氏は桐壺帝の第二皇子で、母は桐壺更衣です。幼少の頃から輝 くばかりの美貌と才能に恵まれ、光の君と綽名される。母は三歳のとき 亡くなりました。母に似る女性藤壺への思慕が初恋となり、その思い影 を求めて生涯様々な女性と関係を持つ。父桐壺帝は光る君を東宮(皇太 子)とすることを考えたが、実家の後援がないことを危ぶみ、また光る 君が帝位につけば国は乱れると高麗人に予言されたこともあり、臣籍降 下させ源氏の姓を与えた。 源氏は元服し、左大臣の姫君(葵上)と結婚した。一方、葵上の兄 蔵人の少将は右大臣の四の君と結婚する。二人は生涯、ライバルの関係 となる。気位の高い葵上に親しみを持てない源氏は、亡き母のおもいか げの通う美しい藤壺の女御を一途に思慕する。母親の邸宅を改修して、 二条院という源氏の私邸が完成する。 五月雨が降り続くころ、宮中の源氏の宿直所に頭の中将(葵の上の 兄).左馬頭.式部の丞の三人が集まって、源氏と女性論や体験談を語 り合う(雨夜の品定め)。翌日の晩、源氏は方違えで中川の家に泊まり、 伊予の介の若き後妻である空蝉に会う。後日、中川の家を訪れた源氏は、 空蝉の部屋に忍んだが、空蝉は気付いて部屋を抜け出してしまう。 六条の御息所に通う途中、源氏は夕顔の咲く家の女性(夕顔)を知 る。素性を隠して通ううち、荒れ果てた某の院に夕顔を伴って行った夜、 夕顔は物の怪に襲われて急死する。夕顔は以前、頭の中将が通った「常 夏の女」で、二人の間には娘(玉鬘)がいたが、頭の中将はこの母子の 行方を捜していた。 13 源氏は「わらわ病み」の加持のために桜咲く北山に聖を訪ねた時、 藤壺の女御によく似た少女(紫の上)を見いだす。少女は兵部卿の宮 (藤壺の兄)の姫君で、母に死別した後、祖母の依尼君と暮らしていた。 帰京した源氏は、王の命婦(藤壺の侍女)の手引きで、三条の宮に里下 がりしていた藤壺と契る。藤壺は懐妊し、源氏も夢占いでこの事実を悟 る。北山の尼君は帰京後世を去り、少女はひとり残された。源氏は少女 を二条院に迎え取る。 夕顔の死後、故常陸の宮の姫君(末摘花)が寂しく生活しているこ とを源氏は聞いて関心をいだく。大輔の命婦(源氏の乳母の娘)の手引 きで源氏は末摘花に会ったが、ものを言わない彼女を源氏は気に入らな い。雪の夜、紅花のような彼女の赤い鼻の先を見て驚くが、その貧困と 誠実さに同情して源氏は彼女の世話をする。 一○月の朱雀院への桐壺帝の行幸を前に、懐妊中の藤壺のために試 楽(予行演習)が催された。源氏は頭の中将と共に青海波を舞って、 人々に注目された。行幸の当日、紅葉をかざして舞う源氏はいちだんと 素晴らしく、源氏は正三位を腸った。翌年二月過ぎ、藤壺は皇子(冷泉 帝)を出産した。何も知らず喜ぶ帝を前にして源氏と藤壺とは慄然とす る。七月、藤壺は中宮に、源氏は参議に昇進する。 紫宸殿の花の宴(観桜会)の夜、源氏は朧月夜に会い、あわただし い一夜を明かす。彼女は、右大臣家の六の君で弘徽殿の女御の妹であり、 春宮(朱雀帝)への入内が決まっていた。 桐壺帝が譲位し、朱雀帝が即位する。藤壺中宮の若宮が春宮(皇太 子)となる。加茂の新斎院(女三の宮…朱雀帝の同母妹)の御祓の日、見物 に来た六条の御息所と葵の上の一行は見物位置をめぐって車争いをし、 六条の御息所の車はさんざんに乱暴を受け、誇りを傷つけられた御息所 はこれを深く恨んだ。懐妊した葵の上は、六条の御息所の物の怪に取り 憑かれて悩むが男子(夕霧)を出産し、その後急逝する。四十九日の服喪の 後、源氏は二条院にもどって紫の上と結婚する。 14 六条の御息所は娘の斎宮とともに伊勢に下ることになり、源氏は野 の宮に赴いて慰留するが、むなしく去る。桐壺院の病状は俄に改まり、 二月崩御。朧月夜は尚侍となり、弘徽殿に住んだ。朝顔の姫君が斎院と なった。ある日、源氏は藤壺のもとに忍び、その思いを述べたが、政情 の緊迫に春宮の身を案じた藤壺は、源氏を近づけぬため、桐壺院の一周 忌に法華八講を行い、出家する。右大臣家の権勢はめざましく、桐壺院 の死後、政治状況は一変して、源氏方には冬の時代が訪れていた。翌年 夏、さと下がりした朧月夜のもとに忍んだ源氏は右大臣に発見され、弘 徽殿の女御たちは源氏失脚の策謀をめぐらす。源氏は故桐壺院の麗景殿 の女御を訪問し、その妹の花散里と会う。 兄の朱雀帝即位後、その外戚である右大臣.弘徽殿女御派の圧力や 尚侍となっていた朧月夜との醜聞もあって須磨、後に明石へ隠退。この 時、明石の御方と結ばれ、後の明石の中宮となる姫君が誕生する。帰京 後は即位した冷泉帝の後見として復帰、秋子中宮を養女迎えて冷泉帝の 后とした。その後、太政大臣となった源氏は、その栄華の象徴ともなる 広大な四町の邸宅.六条院を造営した。西南の秋の町(六条御息所の旧 邸)は秋子中宮の里邸に、自らは東南の春の町に紫の上や明石の姫君と 住んだ。また東北の夏の町には花散里を(後に玉鬘もここに迎えられ た)、西北の冬の町には明石の君を配し、さらに二条東院にもかつての 恋人たちを引き取って世話をした。 四十歳を迎えたのを機に、冷泉帝より准太上天皇の待遇を受ける。 栄華の絶頂に至った源氏だったが、兄朱雀院の出家に際し、源氏の正室 にふさわしい高貴で有力な後見する妻がいないにかこつけて、内親王の 庇護者にと姪.女三宮の降嫁を打診される。藤壺亡き後も今尚彼女への 思いおさえがたく、女三宮が紫の上同様に藤壺の姪であることにも心動 かされた源氏は、これを断る事ができなかった。しかし結婚してみれば ただ幼いだけの女三宮に源氏は失望し、また女三宮降嫁に衝撃を受けた 紫の上も苦悩の末病に倒れて、六条院の栄華にも次第に影が射し始めた。 15 やがて、源氏自身がかつて父桐壺帝を裏切ったように、女三宮の密 通が発覚する。一度は女三宮とその恋人の柏木に怒りをつのらせた源氏 であったが、生まれた子供(薫)を見て、これが若い日の罪の報いであ ったことに気付かされ(因果応報)。 その後女三宮の出家と柏木の死でさすがに怒りも和らぎ、また亡き 父帝も源氏の過ちを悟っていながら咎めなかったのではないかと思いを 馳せて、源氏は生まれた子の秘密を誰にもいわず自分の子として育てり ことなった。最愛の紫の上の死後は嵯峨に隠退して二、三年出家生活を 送った後に死去したことが、後に「宿木」で述べられる。なお出家から 死までは作中には描かれず、本文の存在しない「雲隠」が源氏の死を暗 示するのみであるとも、また本文は失われたとも言われる。 源氏が亡くなって後、その面影をしのばせる人は、薫(母、女三の 宮)と匂の宮(母、明石中宮)のわずか二人だけであった。薫は自分の出生 の秘密を感じて一人苦悩している。源氏の第宮(八の宮)は宇治の山荘に隠 棲し、大君.中の君の姉妹を育ていた。薫は二十歳の時、八の宮に親し み、仏の道を学ぶためにしばしば宇治に通うようになる。ここで薫は自 分の出生の秘密を柏木の乳母(弁の君)から教えてられる。薫は大君に 求婚するが、大君は父親の遺言を守って独身で一生を終わる決意をして おり応じようとはしない。大君は薫が妹の中の君と結婚することを望ん でいる。薫は自分の代わりに今上帝の三の宮である匂の宮を中の君と結 婚させる。大君は落胆し、妹の結婚の行方を心配しつつ大君は心労のあ まり薫に見守られながら亡くなる。薫が訪問して中の君と親しく話をし ていると、匂の宮は二人の親しさに不安を感じる。 匂の宮と夕霧の六の君とが結婚する。薫は女二の宮と結婚する。薫 は中の君から大君によく似た異母妹浮舟のことを耳にして心引かれる。 中の君は浮舟を預かるが、匂の宮は浮舟に関心をいだく。これを聞いた 薫は浮舟を三条の小家に隠し、さらに宇治に連れ去った。浮舟の所在を 探り当てた匂の宮は、薫をよそおって浮船と契る。二人の秘密を薫は知 16 る。二人の男性の間で煩悶の末、浮船は宇治川に身を投げる決意をし、 失踪する。横川の僧都は浮舟を発見して、僧都の母の尼君は小野へ連れ 帰って介抱する。薫は、死んだものと思っていた浮舟の生存を僧都から 伝え聞く。薫はすべてを許す旨の手紙を子君(浮舟の弟)に届けさせるが、 浮舟は面会をこばみ、音沙汰もない。浮舟を誰かが隠しているのではな いかと、薫は疑いを抱く。[4] 17 第二章 源氏主役と十妻宇治での人物 2.1 (初めの第三十三章で)源氏と恋人たち 2.1 源氏の性格 光源氏は桐壺帝の第二皇子で、母は桐壺更衣である。幼少の頃から 輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、光の君と綽名される。母は三歳のと き亡くなった。 源氏は多情、お人好し、立派な男の人で、また愛情を愛惜する。彼 は美しさを愛していて、彼が愛した全ての女性は非常に個人的な感情及 び忘れられない思い出を残していた。彼が過ごした愛情による光源氏は 内気な気持ちがある、 時々感情が弱くなる(恋人夕顔の死後、正妻葵 の上の死後…)、ただし彼の輝く美貌はどこでも、いつでもいつも存在 する。彼は寛容人、雅量、明石、空蝉、末摘花女性が生活に困るときな ど責任を持つ人である。源氏は学問の才能で、芸術を愛している人、す なわち文学と武道の両方の人である。彼は現在までの女性の夢に理想の 男の人である。 書いたベトナム人 Nhat Chieu という研究者に従って「源氏は自身で 人間の悲しさを持って存在している、人と自然の同感をできる人である。 それこそ彼の傑出の本性である。彼は立派な人、愛情の愛惜、女性を愛 惜する人である。彼の全ての行動は誘惑することも人の本性だらけであ る。この本性は気質、心など表すが、肉体が遠くなりません。源氏は歴 史の英雄、道楽者、がり勉、悲劇人物ではない。彼は愛人だけである。 源氏の愛情は雅量の美しさを存じる寂しいことである。」[1] 2.2 源氏主役に影響がある女性 源氏の母となる桐壺更衣はそれほどいい家柄に生まれたわけではあ るが、ひときわ美しく気立てもよく、天皇(桐壺帝)にたいへん気の入 18 られた。天皇のそばに仕える女たちは将来は皇后になろうと密かに思っ ていて、嫉妬を受けることが積もり積もって、病気がちになっていく。 天皇は桐壺更衣のことをますます不憫に思い、一層大切にした。源氏を 生んでからも、弘徽殿女御や多くの女たちから憎まれ、召されて天皇の いる清涼殿へ行く途中、他の女たちのいる部屋の廊下を通るときに、い じわるをされることがあった。廊下の両端の戸を閉められ薄暗くなった 廊下にとじ込められたり、廊下に水がまかれてあり遠回りをさせられた り、またある時はしびんに入ったおしっこを美しい重ね着の衣装にかけ られたこともあった。それでも、天皇に心配を掛けないよう桐壺更衣は 胸の中に秘めて一人で苦しんでいる。天皇もこのことを察したのか、桐 壺更衣を遠くにおいてるのはよくないと思い、彼女を清涼殿の隣に移す ことにした。源氏の評判が高まるに連れ、桐壺更衣は他の女たちから一 層憎まれるであろうという恐ろしい思いをするのであった。やがて、気 の弱い桐壺更衣は体がやせ衰え、御所での勤めも続けられなくなり、三 歳になった源氏を残して亡くなってしまいる。 いつまでも、亡き桐壺更衣を忘れられない天皇でしたが、その面影 のある藤壺女御と出会い、親しくなった。藤壺女御は桐壺更衣と違って、 父親が先の天皇で、位も女御であったことから、他の女たちからいじめ られることはなかった。源氏も出会ったころは、五つ年上の継母は姉の ように慕っていたのであるが、だんだん恋心を抱くようになっていく。 そして藤壺女御が二十三歳の年には、とうとう源氏の子供を宿します。 ところが、天皇はこれに気付いておらず、生まれてからは天皇の子とし て育てられることになります。天皇は喜びのあまりこの子をひざから話 しません。源氏が伺いに上がった時も、この子を抱いて小さいころの源 氏にそっくりだと言います。源氏は顔色の変わり、藤壺女御は冷や汗が 流れるばかりの思いをします。この子は後に冷泉帝となるのであるが、 彼らは共に一生涯この罪悪感に悩まされることになる。藤壺中宮が出家 19 して亡くなった後に冷泉帝はこの事実を知ることになるのであるが、こ のことを太政大臣として仕えている源氏に対して言うに言えない。 源氏が十二歳になり、元服の式(成人式)をあげるのを心待ちにし ていたのは、左大臣であった。これを機に娘の葵上(十六歳)と源氏を 夫婦にしようという、かねてからの思惑を成し遂げるのであった。当時 としては当たり前のことだったのであるが、天皇と親類になることによ り政治的に勢力を伸ばす策略なのである。しかし、葵上は夫の源氏と心 打ち解けない日々が続いた。葵上は二十五歳を過ぎて源氏の子供を妊娠 する。つわりで苦しむ葵の上でしたが、この年の葵祭りの行列に源氏が 加わるということで、世間では大変な評判になっており、気晴らしのた め葵まつりを見に行くことにした。源氏より七つ年上の恋人の六条御息 所は、葵上の伯母に当たるが、この葵祭りを見学するときに、牛車を停 める場所の取り合いで、この女性二人が争うことになる。六条御息所は 葵の上のお供の男たちに牛車の柄を折られて恥ずかしい思いをさせられ る。後でこれを知った源氏は六条御息所のところへ謝りに行くが、彼女 は会おうともしない。彼女のところへ行ったと聞いただけで、葵上は葵 の上で機嫌を悪くする。その後、葵上の妊娠をねたむ六条御息所の怨念 が物怪となり、葵上を苦しめるが、坊さんが護摩を焚いたおかげで、な んとか男の子(夕霧)を出産した。源氏にとって表向きには初めての子 供であるが、実際は二人目の息子ということになる。その後、無事に生 まれたことで人々が気をゆるめたところへ、物怪が付け入り、葵上を死 に追いやってしまう。 一方、六条御息所も時を同じくして、日々葵上に飛びかかり殺すと いう恐ろしい夢を見ていたのであるが、葵上の死後はこの悪夢から解放 されます。妻のいなくなった源氏が自分を次の妻にすることを期待する のであるが、あきらめて亡き皇太弟との間にもうけた娘(後の梅壺女 御)が伊勢神宮の斎宮として仕えるのに付き添って、伊勢へ行ってしま った。 20 源氏は十八歳の春に、わらわやみという発熱病になり、北山にいる 僧都のところへお祈りをしてもらうために出かける。そこで、おかっぱ 髪のかわいらしい十歳の紫の上と出会う。源氏は自分を惹きつけるこの 少女が、深く慕っている藤壺女御に似ていることに気付くのであった。 僧都の話を聞いて、その妹尼君の娘と兵部卿宮(ひょうぶきょうのみ や)の間に生まれた娘で、藤壺女御の姪に当たることをしる。紫の上は 父親とは一緒に住んでおらず、母親も早くに亡くしており、病気がちな 尼君と暮らしていた。紫の上の母親は父親の正妻のねたみにより呪い殺 されており、源氏は自分と同じ境遇の紫の上をかわいそうに思い、彼女 を引き取りたいという気持ちが激しく起こってくる。それを伝えるため、 しばしば尼君のところへ使いを送るのですが、尼君はこれを承知しない。 やがて、尼君が亡くなり、父親の兵部卿宮が紫の上を引き取る日の前日 に、源氏は紫の上の寝室に忍び込み、乳母と待女たちが驚き慌てている 間に、彼女を連れ去っていく。ところが、乳母から口止めされた侍女た ちは兵部卿宮には乳母が紫の上を連れ出して行き先が分からないと話す。 兵部卿宮は生前尼君が実の母でない人のところに姫をやりたくないと言 っていたことを思い出すのであった。紫の上は教養を身に付け、源氏の 理想の女性として育っていきましたが、幼いながらも藤壺女御や紫の上 に嫉妬することもあった。十四歳になった時、源氏と男女の緑を結びと もに、裳着の式(女の成人式)を上げることになるが、いつまでも隠し ておくことはできないので、兵部卿宮をこの式に招くことにした。こう して、紫の上はなくなった紫上に代わって、源氏の正妻になった。源氏 は官位を取り上げられてしまい、さらには流罪になる危険性が高まって きたことから、自らが須磨(現在の兵庫県神戸市西部にある海岸の景勝 地)へ下ることを決意した。妻の紫の上を連れて行くこともできず、京 都から離れた須磨へ行くことになった。そして、海辺の須磨で寂しい生 活を送る。一年ほど過ぎたころ、激しい嵐が何日も続き、落雷による火 事にも遭った。やがて、嵐が治まり、落ち着きを取り戻した、その夜、 21 三年前に亡くなった父桐壺帝の亡霊が現れて、須磨を去るように言う。 夜が明けると、浜辺に明石入道が乗った船が現れました。お告げに従っ て、ここへ来たのだと言う。明石入道は以前から源氏に近づきになりた いと思っていたことから、彼を明石(兵庫県南部の地域で須磨の西に位 置する)の海岸にある自分の屋敷へ迎えることにした。そして、二十七 歳の気品の高い源氏を娘の婿にしたいと思う。子の娘が明石の上である。 源氏は明石入道の勧めで彼の娘明石の上と会うことになりました。 教養は高いが、世慣れしていない愛らしい娘である。源氏は京都に残し た来た紫の上のことを思うと、心がとがめるのであるが、彼女より一つ 年下で十八歳の明石の上との恋を楽しんだ。 一方、京都では源氏が桐壺帝の亡霊に会ったその夜、朱雀帝の前に も現れ、そして彼をにらみつけていました。源氏の助けよって天下を治 めよという遺言を守らずに、彼を須磨へ追いやったからである。これ以 降、朱雀帝は目を患い、祖父の太政大臣(元の右大臣)は亡くなってし まう。母の広徽殿太兵も病の床につくのであるが、それでも、彼女は源 氏のことを許そうとはしない。しかし、翌年の秋朱雀帝は源氏を戻すよ う命じた。 源氏は京都に帰られることをうれしく思ったが、明石の上との別れ が、なごり惜しく悲しくてならない。というのも、この夏にはすでに明 石の上のお腹に自分の子がいることが分かっていたからである。源氏は 明石の上に、いずれ京都へ必ず迎えることを約束し、形見に自分の琴を おいて、明石を去っていく。 京都に戻ってからも源氏は明石の上のことが気になっていて、明石 に使いを送り、娘(明石姫)が生まれたことを知る。源氏は紫の上との 間に子供がなかったので、この娘を自分たちの養女として引き取ること を提案する。紫の上はこの娘と一緒に明石の上も一緒に来るのだろうと 思うと、いい気持ちはしなかったが、心の優しい紫の上はかわいがって 大切に育てると返事した。 22 やがて、明石入道は京都の西にある大堰川(おおいがわ)のほとり の別荘を改修し、じぶんは明石に残り、夫人と明石の上と三歳になった 明石姫を住まわせる。源氏はこの隠れ家を密かに訪問し、久々に明石の 上と対面する。そして明石の上は間もなく四歳になろうという娘を、恋 敵の紫の上に引き渡すことになった。 源氏が三十九歳の春、十一歳になった明石姫のため、裳着の式を挙 げることになった。少女ながらも、気品高い美しさは将来どんなに素晴 らしい女性になろうかと思われた。本当の母でありながら、正式の妻で はないことから、出席できない明石の上の心のうちを思いやる源氏はつ らく寂しい思いをするのであった。その後間もなく明石姫は十三歳にな った皇太子(後の今上帝)が元服の式を挙げるとき、御所入った。 明石の上は本来なら入内した姫君のお付きにはなれないところであ るが、宮中の人となり、これまで八年間、娘と分け隔てられていた悲し さやつらさも消えてしまった重いである。姫君を立派に育て入内させて もらった源氏と紫の上にたいへん感謝した。明くる年の夏、女御となっ ていた明石姫は十二歳で懐妊し、三月には無事に男の子を出産した。遠 く明石でこの吉報を聞いた明石入道は躍り上がって喜んだ。その後、こ の男の子が六歳になった時には冷泉帝の譲位により皇太子であった父親 が帝位(今上帝)に就いたことに伴い、皇太子となった。 明石女御が十八歳になった冬には、久しぶりに懐妊し、翌年にめで たく二人目の皇子匂宮を出産した。 夕顔の死後、娘の玉鬘は四歳で乳母の一家に伴なわれて筑紫(らく し現在の福岡県西部)へ行った。大人になると、その美しさゆえ求婚者 が多く、強引な求婚に困り果てて京都へ逃げて帰る。そして、かつて夕 顔に仕えていて、今では源氏に仕えている右近と再会する。 三十五歳になっていた源氏は右近から玉鬘のことを聞き、自分の娘 という触れ込みで新しい屋敷へ彼女を迎える。その翌年、玉鬘は源氏の 恋をはぐらかすそうとするのであるが、その夏に源氏と一夜を明かした。 23 さらに明くる年、源氏は内大臣にこれまで内緒にしていた玉鬘のことを 打ち明けると、彼は娘の無事を喜んだ。 源氏は二十四歳になった玉鬘を冷泉帝の尚待として宮中へ差し出し たところ、その夜髭黒右大将の企みにより御所からさらわれてしまう。 源氏は忌々しく思ったのであるが、そんな自分も当時十歳であった紫の 上をさらってきているのですから、人のことは言えないはずである。父 親である内大臣が仕方なく許したので、源氏も髭黒右大将と玉鬘の間に 男の子が生まれる。 2.2 (次の章八で)源氏の終わり 2.1 過去の誤ることに後悔 三十四章で、源氏が朱雀先帝から賜っていた十五歳の恋人女三の宮 と結婚する。が、源氏が紫の上の病気を世話しているので注意しないう ちに女三宮は柏木と逢引の関係があった。その後も関係は深まり、女三 の宮は柏木の子を妊娠し、翌年には男の子薫が生まれます。表向きはあ くまで源氏の子供です。生まれた子供を見て、これが若い日の罪の報い であったことに気付かされた。四十八歳になった源氏は昔、自分が父桐 壺帝の愛する藤壺女御を密かに我が物にした報いを受けた思いがして、 非常に心苦しい気持ちになった。 柏木は深く悩んで病気になり、その後女三宮の出家と柏木の死でさ すがに怒りも和らぎ、また亡き父帝も源氏の過ちを悟っていながら咎め なかったのではないかと思いを馳せて、源氏は生まれた子の秘密を誰に もいわず自分の子として育てりことなった。源氏は愛情を体験したこと があるので、源氏が女三の宮妻の裏切ることを発現したには、それは幸 運ですか報い罪ですかと自分で聞いた。父帝は彼の罪を知らぬので平穏 に死んだが彼にはどんな死去があるかどうか欲しい。 「それにしても宮を今後どうお扱いすればよいであろうか、妊娠も そうした不純な恋の結果だったのである。情けないことである。人から 24 言われたことでもなく、直接に証拠も見ながら、以前どおりにあの人を 愛することは、自分のことながら不可能らしい。」[6] ここで因果応報の理念とよばれて、「悪いことをするので悪いこと に報いことになる」である。源氏は父帝の感情の裏切るように藤壺と一 緒に逢引の罪をしたが現在には彼は妻女三宮に裏切られる。でも最も悲 しさは彼が知ったが誰にも語らう。それは深く悲しくさせる。 源氏の生涯は華やかだし、我慢できないように悲しさを過ごした。 須磨退去するのは源氏は須磨の海の波に揉む抜かれる影像である。その 影像は源氏の罪を刑罰したい神のようである。それは源氏の罪に報いる のである。でも父帝の寛容によって彼がきょうへ平穏無事に帰って終わ る。 「終日風の揉み抜いた家にいたのであるから、源氏も疲労して思わ ず眠った。ひどい場所であったから、横になったのではなく、ただ物に よりかかって見る夢にお亡くなりになった院がいっておいでになったか と思うと、すぐそこへお立ちになって、「どうしてこんなひどい所にい るか」こうお言いになりながら、源氏の手を取って引き立ってようとあ そばされる。「住吉の神が導いてくださるのについて、早くこの浦を去 ってしまうがよい」と仰せられる。 源氏はうれしくて、「陛下とお別れていたしましてからは、いろい ろと悲しいことばかりがございますから私はもうこの海岸で死のうかと 思います」 とんでもない。これはね、ただおまえが受けるちょっとしたことの 報いにすぎないのだ。私は位にいる間に過失もなかったつもりであった が、犯した罪があって、その罪のつぐないをする間は忙しくてこの世を 顧み暇がなかったのだが、おまえが非常に不幸で、悲しんでいるのを見 ると堪えられなくて、海の中を来たり、海べを通ったりまったく困った がやっとここまで来ることができた。このついでに陛下へ申し上げるこ 25 とがあるから、すぐに京へ行く」と仰せになってそのまま行っておしま いになろうとした。」[6] 2.2 悲しく病死 三十五章以後、悲しさは源氏に過去のことを思い出させている。彼 が幸運のおかげでの会った女性についての考え、もっとも深く彼女らが 分かる。彼は自分の過ちを隠すために理由を探していり、そのとき藤壺 女御と恋愛のことは「火が長い間わらの近くに燃える火」の恋愛であっ て、そして源氏はその恋愛の方柏木と女三宮の二人の裏切りより許せる と思います。または女三宮に比べて、他の女性はもっと高貴な性格があ ると思います。その女性は貴い家柄ではないが彼らの気質は軽視できな い。たとえば、玉鬘女性は子供から大人まで普通生活に暮らしたが彼女 は賢いし、大人しいし、彼の恋愛の前に決断する人である。正妻女三宮 に裏切られることから、彼は誘惑された以前の女性のことを考え、その 考えへの自らを挙げ、遂に「女の人の教育のが難しい」という結論をあ げる。 紫の死後、源氏を本当に崩壊させた。彼には紫がほぼ理想女だと思 われる。彼女に対して彼は何でも話せるし、何でも隠しないんである。 寂しいときも楽しいときも、彼女はいつもいつも彼と一緒に語らう人で ある。彼女は素晴らしい人だし、きれいだし、そして淑徳の十分にある 女人である。彼女は暗黙で住んでいるが、源氏恋人はいつも自分の心に 彼女の影も存じる。源氏にとっては彼女が大切な人である。彼女は雅量 の美しさを守るし、他の女性から貴重をもらう。彼女は妻として淑徳の 十分に完全した。死にときまで、彼女は源氏のことを、彼女の愛してい る人を心配する。そんな素晴らしい女の人は源氏だけではなく、誰にも 哀惜する。紫の死後、源氏は死にたいが死ねない。実は、彼はまだ人間 のうわさを心配する。これこそ彼にもっと悲しくさせた。「この世のこ とではあまり不足を感じなくともよいはずの身分にうまれていながら、 誰よりも不幸であると思わなければならぬことが絶えず周囲に起こって 26 くる。これは自分に人生のはかなさを体験すべく仏がお計らいになるの だと思われる。それをしいて知らぬ顔にしてきたものだから、こうして 命の終わりも近いときになって、最も悲しい体験をすることになったの だ。」[6] そんなことのまま、彼の周りのものは彼に紫を思い出させる。 彼も他の女性を訪問したが素晴らしい女の人紫を哀惜するのはいつも存 じる。 時間が経つ、源氏の寂しさはまだ存じる。遂に源氏は出家すること にしたり、紫についての記念を燃やした。 「もの思うと過ぐる月日も知らぬ間に 年もわが世も今日や尽きぬる」[6] 2.3 (終わりの章九で)源氏の子孫 時間が経過して、源氏の子孫は成長します。 本最終的な章における 中心人物は薫と匂の宮として際立っています。以前の話について行うと ころは華奢な宮廷であるが、これから静かな宇治である。この宇治は八 皇子の娘の大君、中の君、浮舟の三人姉妹を中心に恋愛するのである。 薫は柏木と女三の宮の息子である。薫は秋好と冷泉先々帝に源氏の 依頼で育てられる。薫は穏やか、謙遜、頭がいい、そして貴族の美しさ を持っている男の人である。薫は源氏の息子ではないから、源氏の輝く ばかりな美しさを継承できない。でも、薫の体から自身だけ自然な匂い があり、彼は「薫中将」と綽名と呼ばれた。彼は美しさの愛している人 だし、優しいし、が、多情の源氏と違って(大君だけへの向かう愛情)。 彼は内気に暮し、自分の気持ちをいつも隠し(女一宮に向こう愛情)、 愛情を決断できない(最後まで大君、中の君、浮舟の三人姉妹と誰にも 結婚できない)。彼は仏道を信仰するが、生活に困って、望む通りに仏 道の帰依者になれません(八皇子の弟子になりたかったことがありま す)。薫が大君へ向ける愛情は京都から宇治まで遠くところを越えれる が、その愛情の結果は大君の恋人の死別である。大君は美しい女、堅苦 27 しいが、また弱気な人であると思っていた。大君は人間の愛情の永久を 信じられないから、中の君妹に薫を譲てあげる。でも、物事は自分の望 む通りにいっていない、そして悲しく死んだ。 大君姉より中の君の方が美しい。彼女は夢が好き、ロマンチックの 人である。匂を愛しているが時々その愛情と対面したくない。実は匂恋 人の多情を恐れる。大君の死後、薫がなかなか彼女の影を忘れられない ので、彼は友人の匂の奥さんとして中の君と語らうことによって彼女の 影を探す。が、中の君は彼の予定通りにならない頭が良い人。彼女にと って薫は信じられる兄のような人である。 浮舟は大君姉によく似ている人である。彼女は多感、多情の女で、 愛情の寛大の人である。薫は深くて誠心誠意に彼女を愛している。が、 浮舟はその愛情の代わりに薫と匂の二人を共に愛していて、壮絶な三角 関係の開始するのである。最後に彼女は進退極まり、宇治川の中に自殺 しようとしたが助けられて、仏道にはいって暮らす。 終わりの九章に、人物の愛情のことは悲観的及び信心できなくなる。 彼らの愛情は十二、十四、十六歳の愛情ではないが、十九、二十歳の青 年の愛情である。でも、このときの愛情は絶望的、悲しい、進退極まる 長日の愛情である。 28 第三章 源氏物語に哀れ 哀れの定義:学者たちから他の定義が多い。あわれの字は漢字で哀 (悲哀の字の中)を書いてあり、そして意味が多いので最後まで確認で きない。平安時代からのあわれの字は美的理念の一つ、折に触れ、目に 見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁。 日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、心の底から 「ああ(=あわれ)」と思う何とも言いがたい感情。 つまり、「あわれ(物のあわれ)は自然と人間悲哀美的なことであ る」。[1] 3. 人物の命の前の哀れ 3.1 人物の亡くした時間の哀れ 源氏物語で専念的、夢の好き、悲しい、寂しい、絶望、思慕、未練 の時間で、人間の青春年と若い生活などを経ってしまわれます。物語の 人物は時間によって支配される。人物はお互いに関係をするのに、一人 ずつ人物と共に時間的な要素を存在する。要するに、時間と人物とどち らもお互い授受しなくてはいけない。長い間というのは源氏、薫の主役 として一番はっきり現れる。この男の隣には彼らの生涯の中に女たちを 存在してある。その人物は時間とともに対面したり、流れられたり、時 間の変わるの語らったりする。 源氏の生涯については物語の内容のほとんどを過ごす(物語の四十 一章まで)。時間は源氏が生まれてから成長するまでの生涯の一番大切 事件を過ごすことと存在する。時間は悲哀的、多感情などの生き生きと した人物の心理の絵である。 29 源氏は自分の全ての生涯で恋人たちに母の影を探す。藤壺継母と初 恋を過ごす。その愛情の結晶は彼に似ている息子ができる。この息子の 面影から源氏は罪悪感でだんだんもっと悲しくなる。 時間は人間の感情を話してくれた。現在の時間は懐かしいこととい う過去の時間に空間を譲る。旧悪は現在の柏木と女三宮の妻の逢引で現 れられる。この逢引の結果は柏木に似ている息子がある。時間は主役源 氏に他の人の信頼を背信することを深く存じる。次の主役の薫は源氏の 息子である。この主役は源氏の生活をしたことがあるのをもう一度暮ら す。物語の生活をはされて続けていて、ただし薫主役が源氏主役に代わ った。「紫式部の哀れの時間は彼女の人物を消して、老人になる時より 若い時の方が死にと思っていたので運命的な絵巻に穴を置いてある。そ の時間は女性の時間で、紫式部作家が若いときの死別の方老人のときよ りが好きである。ですから、これこそ匂と薫の若い二人が源氏主役に代 わりの理由を解説することである。紫式部作家は源氏の死後、物語をや めたくない。作家の望むのはもう一度青春年及び恋愛が続けられる」。 [1] 時間は人物の意識とともに存在して、これは全ての事件、感情、気 持ちなどを物語に含む。母が早く死んだから、源氏は小さい頃から十分 に母の愛情を受けなかった。ですから、幼いときの十分に母の愛情が欲 しいので亡母の影をいつも探したい。今、葵上の死後、三条へ帰って、 葵上の妻と一緒に過ごす時間を思い出及び悔やむ。この時間は「同衾の 違う夢」である。または藤壺皇后の出家する予定のとき源氏は会って、 泣きたくて、そのときの過去の記念はだんだん十分に戻した。または夕 顔の元の恋人の娘に会って、夕顔と過ごした愛情の及びの彼女の死のお かしさを思い出す。恋人のだけではなく、自分の生涯と友達のすべての を思い出になる。ところが、朧月夜に会うことにした時、彼は以前の彼 女と逢引を思い出になる。または、鴨寺院を訪問するとき帰るの途中に 葵の上の妻と六条夫人の嫉妬を思い出す。または、紫の上の死後、源氏 は深く悲しい…薫主役には浮舟に会ったと、大君のことを思い出された。 30 時間を経っている通りに現在と過去がお互い存在するでしょう。つまり、 時間は「日が経つにしたがって寂しくなり」。[6] いわば、時間が人物の意識とともに存在するのは主にロマンチック 恋愛、深く感情、懐かしい、人間の哀れをする。それらはいつか人が心 から思うために人間の生涯にいつも現れる。これこそ人物の意識ととも に時間の存在で、人間の哀れを現れる。 3.2 美しさの無常の前に哀れ 美しさは徳育的なことを評価するために標準と価値であり、生活の 全ての分野に一般審美観の理想である。芸術には美しさは十分で輝かし くなるに従って誘惑及び強く薫陶する。美しさの実感は心から特別に何 かを感じる。美しさの運命は早く散るが美しさの残影は永久的に人間の 心の中に存在する。 物語の中に、源氏は外見から才能まで美しさを持っている男の人で ある。彼は理想的という美しさの見本男である。彼の出現は「目の楽し い、心の落ち着く」ということである。[6]。美しさは人間の心を薫陶で きり、理念の改正するのである 「どんな強さ一方の武士だっても仇敵 だってもこの人を見ては笑みが自然にわくであろうと思われる美しい少 童でおありになったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。」[6] または、紫の上も美しい、やさしい、深い考え、いじらしい女人である。 彼女の美しさは誰でもこれを見てもっと暮らしたい。彼女は外見の美し さだけでなく、内側の美しさを達する女人である。その美しさは女性、 妻の淑徳によって形成された。または、女三宮のいじらしい美しさは源 氏に彼女の裏切るのことを忘れさせた。その美しさに対しては何でも勘 弁できる。美しさは人間に寛大、勘弁のようになるのをさせる。 日本人の審美の観念には、美しさは短い時間の間に存在するのに十 分に輝く。物語の美人の運命は人間に美しさの存在を証明しているが、 時間によって荒らされる。そして、美人たちは春の風によってぼろぼろ 31 された花の咲いたばかりのように散られて、無目的な脆い舟のうような ことである。時間の生死輪通りに流れられた。 藤壺は優しい、女性的な美しさの女人である。源氏の妻葵上は分か りにくい、貴族の美しい、冷たい的な女人である。六条は体験的な美し いなら、紫の上はいじらしい美しさである。朧月夜は肉体の美しさなら、 明石は雅量的な美しさである...女たちは源氏の生涯と関係するのは 青春年で、女性の一番美しさの時間である。物語の人物は一生の終わり 二つの方法がある。一つは出家で、もう一つは死去へ探す。彼女らの運 命の終わりは他の人に懐かしいし、悲しいし、寂しいし、悲哀を与える。 3.2 美しい自然の前の哀れ 物語の別れるのはほとんど源氏主役の愛情に関するでしょう。別れ るのは短くしても、永久にしても、気持ちの色を持ていると思う。どの 別れるのも自然観光をさびしくなるにする。紫式部作家は自然を人間の 気持ちを言うにする。 源氏が須磨へ流罪される時間は父の墓へ行くとき、そのときの観光 は静かだし、寂れるし、荒れる所である。そして、紫の上をはじめとす る恋人たちと別れていたので、このときの自然はとても寂しい、周る観 光は静かになった。離別するときはいる人と行く人とどちらも個人的な 寂しさを持ている。須磨への流罪所の早く愛情は源氏をもっと寂しくさ せり、そして離れる寂しさは海の波と混乱した。明石と母は京都へ行く に田舎を離れ、このときの観光は「秋は寂しくなる。秋の風は寒いとか、 秋の虫の音は唸り」という秋の離別日である。ほとんどの離別は出会う 日の望むより悲哀の気持ちのほうが多。物語の悲哀は秋に発生すると思 う。物語の秋の自然は寂れる、悲惨な秋である。が、秋も希望、未練、 待ち受けることである。死去を選ぶことについてと言う、死去の選ぶ人 は落ち着くになりたいが、残る人はとても悲しくなる。自然も人物のよ うな気持ちがある。 32 桐壺更衣が亡くなるとき、作家は静かになる自然を描写したり、暗 くなる観光である。松の木は風により強く吹かれる。または、夜の音は 夜の鳥のおかし声によって怖くさせる。 葵上が青春年時の亡くなるのは夕霧の息子を残したり、源氏は愚か になったり、自然も霜と一緒にじっとになる。風は強く吹く及び秋雨は ざあざあが降るのは人間の涙と争いみたい。または藤壺の死去が春のこ とである。……物語の四季は空間と時間について描写するために違う意 味があるのである。 哀れどおりに、物語は自然と人間の関係を表す通りに仏道の思想を 持ってくる。人間が寂しいとき観光も寂しくなる。これも人生に対して 作家の思想である。 物語で、自然は人間の運命を表す。ですから、その自然に出会った ら、人間の感情は理解される。人間が過去の思い出のとき、周り観光は そのときの人間の気持ちによって覆われる。 激しい冬で積もる雪、暗い空間、強い風、源氏は昔の夜中の夕顔の ことを思い出す。または下旬の月の光の前に立って、周りのみかん花の 匂いに、紫の上のことを思い出す、秋には秋の月を見て朝廷の演奏会を 思い出す。月の光を見て源氏は恋人たちを思い出して、女たちも彼を思 い出しているでしょうかと思う。桜が咲いている景色を見て、源氏はこ の花の庭で自分に出会った昔の朧月夜恋人を思い出して、こちらの景色 を見て、周りの皆はまだ昔のような景色である。自然の春は寂しい記念 のことを思い出させられたら、人間の心の春はがだがだで悲しくさせら れる。この気持ちは夕霧が柏木友人の死去を見た時のである。 懐かしい気持ちで、自然は感情の喚起するために不可欠要素である。 自然の時間を経つのは現在の自然に再出会う時の人間の一生の跡を記載 する。そして人間は過ごした時間と懐かしい記念を探して続けている。 自然も時間の周るの前に悲哀、悲しいことを存じていた。 33 自然も人間のようなだ、天地の規則の生死を守る。自然は世間にも う一度きれいに現すが、それから時間の経つに従って散る。時間の存在 は短いが早くに散る。ですから、自然の美しさはときどき短いことによ って人間に懐かしくなるにさせる。天地の無常は自然をはかないにさせ る。 人生は「すぐ咲いたが早く散る」花の命のようなことである。人間 は天地の無常の規則、散る景色を存じるのようであって、早く散る花を 懐かしくなる。自然の映像は人間の気持ちを話すために使われる。人間 の生涯も無情のかげろう。自然の無常の前に立って、人間は小さくなる ことである。上に、人間は自然も心があると思うので、自然は短い、無 常の命があって、特になる自然は人間の気持ちを覆われるときのである。 34 第四章 述懐芸術 源氏物語の芸術といえば、二つの特徴がある。一つは哀れである。 もう一つは虚構の真実性なのである。哀れは上記に話した。虚構の真実 性は源氏物語の二十五章によく現れる。この章で虚構の真実性は玉鬘と 源氏の相談に従って間接的に話される。作家紫式部は以前から自分の時 代までのほかの作品の虚構的なことについて評判したことがある。以前 の虚構は元々虚構で、人間の現実的なことを書いていない。紫式部の考 え方には、源氏主役の関係として周り生活の関係とともに人物の心理を 深く調べる。ここから人間を十分に理解して助けて。紫式部は光源氏の 言い方を通して「小説を書きながら」自分の観点を話した。その言い方 は「いやなことですね。女というものはうるさがらずに人からだまされ るために生まれたものなんですね。ほんとうの語られているところは少 ししかないのだろうが、それを承知で夢中になって作中へ同化させられ るばかりに、この暑いさみだれ、五月雨の日に、髪に乱れるのも知らず に書き写しをするのですね」。 笑いながらまた、 「けれどもそうした昔の話を読んだりすることがなければ退屈は紛 れないだろうね。この嘘ごとの中にほんとうのことらしく書かれてある ところを見ては、小説であると知りながら興奮をさせられますね。可憐 な姫君が物思いをしているところなどを読むとちょっと身にしむ気もす るものですよ。また不自然な誇張がしてあると思いながらつり込まれて しまうこともあるし、またまずい文章だと思いながらおもしろさがある 個所にあることを否定できないようなのもあるようですね。このごろあ ちらの子供が女房などに時々読ませているのを横で聞いていると、多弁 な人間があるものだ、嘘を上手に言い馴れた者が作るのだという気がし 35 ますが、そうじゃ。ありませんか」と言うと、「そうで。ございますね。 嘘を言い馴れた人がいろんな想像をして書くものでございましょうが、 けれど、どうしてもほんとうとしか思われないのでございますよ」。 こういいながら玉鬘は硯を前へ押しやった。 「不風流に小説の悪口を言ってしまいましたね。神代以来この世で あったことが日本紀などはその一部分に過ぎなくて、小説のほうに正確 なれきしが残っているのでしょう」と源氏は言うのであった。 「だれの伝記とあらわに言ってなくても、善いこと、悪いことを目 撃した人が、見ても見飽かぬ美しいことや、一人が聞いているだけでは 憎み足りないことを後世に伝えたいと、ある場合、場合のことを一人で だけ思っていられなくなって小説というものが書き始められたのだろう。 よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことづくめのことを書 くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことづく めに書く。全然架空のことではなくて、人間の誰にもある美点と欠点が 盛られているものが小説であると見ればよいかもしれない。」 「支那の文学者が書いたものはまた違うし、日本のも昔出来たもの と近ごろの小説とは相異していることがあるでしょう。深さ浅さはある だろうが、それを皆嘘であると断言することはできない。仏が正しい御 心で説いてお置きになった経の中にも方便ということがあって、大悟し ない人間はそれを見ると疑問が生じるだろうと思われる。法華経の中な どにはことに方便が多く用いられています。結局は皆同じことになって、 菩提心はよくて、煩悩は悪いということが言われてあるのです。つまり 小説の中に善悪を書いてあるのがそれにあたるのですよ。だから好意的 に言えば小説だって何だって皆結構なものだということになる。」と源 氏は言って、小説が世の中に存在するのを許したわけである。 「それにしてもね、古いことの書いてある小説の中に私ほどまじめ な愚直過ぎる男の書いてあるものがありますか。それからまた人間離れ のしたよう小説の姫君だってあなたのように恋する男へ冷淡で、知って 36 知らぬ顔をするようなのはないでしょう。だからありふれた小説の型を 破った小説にあなたと私のことをさせましょう」近々と寄って来て源氏 は玉鬘にこうささやくのであった。玉鬘は襟の中へ顔を引き入れるよう にして言う。 「小説におさせにならないでも、こんな奇怪なことは話になって世 間へ広まります」 「珍しいことだというのですか。そうです。私の心は珍しいことに ときめく」ひたひたと寄り添ってこんな戯れを源氏は言うのである。 「思ひ余り昔のあとを尋ぬれど親にそむける子ぞたぐひなき 不孝は仏の道でも非常に悪いことにして説かれています」[6] 紫式部は小説芸術の一番輝く及び純潔の見本を肯定した。その上、 作家が、述懐小説を史学より高く置いていた。 小説とは散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、 随想、批評、伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立 するものである。日本紀、古事記に従って紫式部の時代前の小説と言う 言葉は君主が国家や政治に対する志を書いた大説や、君主の命などを受 けて編纂された国史に分類される伝統的な物語や説話に対して、個人が 持つ哲学的概念や人生観などの主張を、一般大衆により具体的に分かり やすく表現して示すと言われるが、紫式部の時代まで、小説は史記より 吸引で、人物の性格、行為を深く与えるために過去、歴史的な虚構を反 復する。言わば、歴史は芸術的で反復される。述懐と感情の融合の原則 は自分の時代に比べ以前の小説の虚構の原則を破って、作家紫式部の後 輩に感興を与えられた。その上、源氏物語は物語の意味について現代史 学に多い認識がある。 物語で、紫式部は人物の態度を表すように理論的、巧妙に人物の状 況を建てた。述べ方は客観的で、物語の挿話は現実の生活の近くのであ る。そして人物の心理ははっきり分析される。たとえば、源氏の態度は 藤壺継母と関係するための父帝の感情を裏切るときの、または、柏木と 37 関係するために妻に裏切られる。。。作家紫式部は物語を述べるために 時間の要素を巧妙に使った。たとえば、現代の生活に覆うために過去の ことを使う、桐壺帝が亡妻に似ているので入内して藤壺の女御と呼ばれ たたり、源氏も亡母に似ているので藤壺を愛していたりする。。。薫は 大君恋人に似ているので浮舟を愛している。こんなに空間、時間を越え る愛情は代表の人物として過去と現在の結合に従って物語への誘惑を証 明する。 38 C. 結論 源氏物語は中古時期の文学作品である。この時期はおよそ平安時代 で長い時間に中華文化を接触していることである。これこそ文字を生ま れる根拠である。そして日本人は隣国を通してはじめに「文学」と言う 概念を存じている。これは日本の文学の作るり絵を変化させた。民国か ら作られる伝承文学だけではなく、詩、短編小説として新しい文学作品 を作った。成立したばかりな小説の形式は竹取物語で、そして伊勢物語 である。小説の頂点は源氏物語である。 日本文学は世界の第二位置を持って中国文学より低いだけである。 日本文学は八世紀の前から書かれた作品を持つ。世界の諸国の文学は日 本文学より長い時間存在したが、今まで唯一の言語だけ書かれた伝統的 な文学は少ない。 日本文学の歴史は長期的なことだけではなく、発展模型の排他的特 色を含む。新しいことは古いことを代えることなく補う。基本的な歴史 の発展模型には古いことは失われていないので、日本文学の歴史の統一 と継続を持つ。同時に新しいことは古いことから補われるので新時代の 文学の形式と芸術価値がもっと多様的、間違い要素を持つ。 源氏物語は世界と日本文学で珍しい古典の作品である。この作品は 新規的な、珍現象を考えられる。 まず、源氏物語は日本の純潔な創造で、伝統的な精華を含む。美し い自然、丁寧社会を見せる為にだんだん開かれている平安時代について 絵巻のようなものである。 一方、源氏物語は小説への新しい道である。これはよどむことなく 現実の自然、生涯の時間を開いた。 小説には紫式部の観点: - 小説は史記より生活を理解して助ける。 39 - 小説は心から感情の言葉なので秘められない。 - 何でも、善悪などの現実生活は小説を書くためにテーマになる 源氏物語はすべての日本文化の分野に影響を与えようだ。千九百六 十八年にノーベル文学賞を受ける際に作家川端がスエーデンアカデミー の前に演説文を読んだ: いくら世紀を経ったが源氏物語の魅力は暑くて、その作品を真似た いである。源氏物語は美術、芸術、技術、詩歌の感興を与える作品であ る。 源氏物語を学ぶのを通して、日本の文化も文学についてもっと知識 を持つ、美しい自然も人物の性格についてをよく存じられる。これは日 本も日本の人間をよく分かるために根拠である。その上、私の望むはこ れから私のような日本が好き及びに小説に興味を持っている大勢の人も いていくと思う。この研究を続ける誰かいて研究が完璧にできるように 間違えをおしえてもらえたいだ。 40 参照資料 •ベトナム語で資料 [1] Nhật Chiêu, Văn Học Nhật Bản Từ Khởi Thủy Đến 1868.
Caiger, Lịch sử Nhật Bản, NXB Lao Động, 2008.org/wiki/Th%E1%BB%9Di_k%E1%BB%B3_Heian [6] http://www.net/ [7]http://www.com/334597-ch%C6%B0%C6%A1ng-3-minamoto- yoritomo?p=1 41 付録 http://www.net/ 01 桐壺(明融臨模本) Chương 1 Kiritsubo 42 02 帚木(明融臨模本) (Chương 2 Hanakigi) 43 44 03 空蝉(大島本) (Chương 3 Utsusemi) 04 夕顔(大島本) (Chương 4 Yuugao) 45 46 05 若紫(大島本) (Chương 5 Waka Murasaki)